玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん)の墓がある浦添市前田

石屋の正

2011年03月25日 08:19

玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん)


お墓の移転がある浦添市前田地区

そこには、私の先輩の家がある。

区画整理事業開始後に見つかった玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん)の墓

その先輩の家は、移転者ではなかったが玉城朝薫のお墓が発見された為

先輩の自宅敷地が一分減歩され 家を建て替えすることになった。

先輩は、自分の家は区画整理地区に入ってないというから

自宅を建設したのに、家を建て数年後に立て替えだよとぼやいてた!

ま~~~~仕方ないね!先輩

今現在は、近くに経塚サンエー(スーパー)もあるし

目の前にコンビニもあるし 良かったね!

先輩は、酒が好きで目の前に冷蔵庫があるから最近飲み過ぎだよ・・・と

先輩 血圧が高いのに!!!!飲み過ぎ注意



そんな浦添市前田の玉城朝薫を紹介する。

玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん、

康熙23年8月2日(1684年9月11日) -

雍正12年1月26日(1734年3月1日))は琉球王国第二尚氏王統の人。

向氏十世で唐名は向受祐(しょうじゅゆう)、童名を思五郎といい、

尚真王の三男:尚韶威・今帰仁王子朝典の後裔。


中国からの冊封使をもてなすために踊奉行に1718年任命された。

奉行職就任後は翌年の重陽の宴にあたり初めて組踊を創作し、

上演した。また歌三線にもすぐれ、湛水流を向日長・新里親方朝住に学び、

それを子の向廷瑛・奥平親雲上朝喜に伝えた。


なお朝薫が創作した組踊は朝薫の五番とよばれ、

「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」「銘苅子(めかるしぃ)」

「孝行之巻(こうこうのまき)」「女物狂(おんなものぐるい)」

「二童敵討(にどうてきうち)」がそれである。



今回調べて分かったことが、玉城朝薫の次男の名前が先輩と同じだった!!

次回、合うとき聞いてみよ









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