2010年09月21日
護佐丸(ごさまる)
世界遺産「中城城跡」について
中城城跡は、中城村と北中城村にまたがり
東北から南西にほぼ一直線に伸びた標高150m~170mの
石灰岩丘陵上の縁辺部に立地する山城で、
南東側は15m以上の切り立った断崖、
北西側は勾配のきつい傾斜面となっているため
城内に至るには正門や裏門に面している南北の
丘陵尾根沿いしかなく、守りやすく攻めにくい地に築かれています。
城は6つの郭からなり、
城壁は琉球石灰岩で積まれ、
自然の岩石と地形的条件を
巧みに生かしながら美しい曲線で構成されています。
護佐丸(ごさまる)

護佐丸の多面的な才能
一、戦略・戦術家…尚巴志の右腕として琉球国統一に大きな功績
一、築城の名人…世界遺産「座喜味城」「中城城」を築城
一、南蛮貿易の実践者…座喜味城下で東南アジアとの交易を開設
一、実業家…陶工を移住させ「喜名焼き」「知花焼き」を興す
中城城が、いつ誰によって建てられたのか確かなことはまだわかっていません。
もともとは当時の豪族「先中城按司」の居城だったと伝えられていますが、
城主として有名なのは護佐丸という人物です。
護佐丸は山田城で生まれ、山田按司を継ぎ、
第一尚氏王統時代の英雄として知られる尚巴志とともに、
三山統一を成し遂げました。
「按司」とは領主・支配者のことです。
その功績が認められ、読谷山の地を与えられた彼は座喜味に城を築いて移り、
読谷山按司として尚巴志王の琉球統一事業に尽力しました。
しかし、その頃勢力を伸ばしてきた勝連城主の阿麻和利を牽制するため、
王の命によりほどなく中城城に移され中城按司となります。
そして1458年、第一尚氏王統第6代王・尚泰久の時に阿麻和利に滅ぼされました。
伝承では、天下を狙う阿麻和利が、
首里と勝連の間に立ちふさがる中城按司・護佐丸を除くため、
護佐丸が謀反を企んでいると尚泰久王に讒言(ざんげん)をし、
王はこの報告を信じて、阿麻和利に護佐丸討伐を命じました。
護佐丸は首里王府軍の旗を掲げて攻めてきた阿麻和利軍を見て
謀りごとと見抜きつつも、王への忠誠心から「王府軍には逆らえぬ」と、
幼児だった三男を乳母に託して落ちのびさせ、
妻子もろとも自害します。
その後、阿麻和利も讒言がばれて王府軍によって滅ぼされたと伝えられています。
この出来事は「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれ、
沖縄独特の芸能である「組踊」などの題材にもなっています。
もっとも、「忠臣・護佐丸、逆賊・阿麻和利」という
構図は首里王府に基づく見方で、
阿麻和利こそ農民たちの英雄だったとする説もあり、
琉球史最大の謎に包まれた事件です。
参考資料
中城城跡共同管理協議会
ホームページ公開中
http://ameku148.com
【天久石材店】
【沖縄一の安さを目指す】
中城城跡は、中城村と北中城村にまたがり
東北から南西にほぼ一直線に伸びた標高150m~170mの
石灰岩丘陵上の縁辺部に立地する山城で、
南東側は15m以上の切り立った断崖、
北西側は勾配のきつい傾斜面となっているため
城内に至るには正門や裏門に面している南北の
丘陵尾根沿いしかなく、守りやすく攻めにくい地に築かれています。
城は6つの郭からなり、
城壁は琉球石灰岩で積まれ、
自然の岩石と地形的条件を
巧みに生かしながら美しい曲線で構成されています。
護佐丸(ごさまる)
護佐丸の多面的な才能
一、戦略・戦術家…尚巴志の右腕として琉球国統一に大きな功績
一、築城の名人…世界遺産「座喜味城」「中城城」を築城
一、南蛮貿易の実践者…座喜味城下で東南アジアとの交易を開設
一、実業家…陶工を移住させ「喜名焼き」「知花焼き」を興す
中城城が、いつ誰によって建てられたのか確かなことはまだわかっていません。
もともとは当時の豪族「先中城按司」の居城だったと伝えられていますが、
城主として有名なのは護佐丸という人物です。
護佐丸は山田城で生まれ、山田按司を継ぎ、
第一尚氏王統時代の英雄として知られる尚巴志とともに、
三山統一を成し遂げました。
「按司」とは領主・支配者のことです。
その功績が認められ、読谷山の地を与えられた彼は座喜味に城を築いて移り、
読谷山按司として尚巴志王の琉球統一事業に尽力しました。
しかし、その頃勢力を伸ばしてきた勝連城主の阿麻和利を牽制するため、
王の命によりほどなく中城城に移され中城按司となります。
そして1458年、第一尚氏王統第6代王・尚泰久の時に阿麻和利に滅ぼされました。
伝承では、天下を狙う阿麻和利が、
首里と勝連の間に立ちふさがる中城按司・護佐丸を除くため、
護佐丸が謀反を企んでいると尚泰久王に讒言(ざんげん)をし、
王はこの報告を信じて、阿麻和利に護佐丸討伐を命じました。
護佐丸は首里王府軍の旗を掲げて攻めてきた阿麻和利軍を見て
謀りごとと見抜きつつも、王への忠誠心から「王府軍には逆らえぬ」と、
幼児だった三男を乳母に託して落ちのびさせ、
妻子もろとも自害します。
その後、阿麻和利も讒言がばれて王府軍によって滅ぼされたと伝えられています。
この出来事は「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれ、
沖縄独特の芸能である「組踊」などの題材にもなっています。
もっとも、「忠臣・護佐丸、逆賊・阿麻和利」という
構図は首里王府に基づく見方で、
阿麻和利こそ農民たちの英雄だったとする説もあり、
琉球史最大の謎に包まれた事件です。
参考資料
中城城跡共同管理協議会
ホームページ公開中
http://ameku148.com
【天久石材店】
【沖縄一の安さを目指す】
Posted by 石屋の正 at 19:32│Comments(0)
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