2010年09月01日
首里城(しゅりじょう)
首里城(しゅりじょう)

首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、
沖縄県那覇市首里にあり、
かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。
概要
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。
戦前は正殿などが国宝であったが、

1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、
わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。
1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、
本格的な復元は1980年代末から行われ、
1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。
1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。
1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。
その後2000年(平成12年)12月、

「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、
登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、
復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、
園比屋武御嶽石門のほか、
第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、
国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、
弁財天堂(べざいてんどう)などの文化財がある。
歴史・沿革
首里城の創建年代は明らかではない。
近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、
三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。
おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に
他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、
首里城を王家の居城として用いるようになった。
同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。
史書で記録されている限りでも、
首里城は数度にわたり焼失しており、
そのたびに再建されてきた。
その度に木材の調達が問題となり、
薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、
将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。
一度目の焼失は1453年(享徳2年)に
第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した
王位争い(志魯・布里の乱)であり、
城内は完全に破壊された。
二度目の消失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。
しかし1709年(宝永6年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。
この時は財政が逼迫しており、
1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。
現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された
1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。
1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、
正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、
日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、
その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、
学校などとして利用された。
王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、
老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。
既に門のいくつかは取り壊されており、
正殿の取り壊しも検討された。
しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、
昭和初期(1928年(昭和3年) - 1933年(昭和8年))に
正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、
県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた
太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に
地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、
1945年5月25日から3日間に渡り
アメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、
27日に焼失したとされる。
(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる)
さらに日米両軍の激しい戦闘で、
首里城やその城下の町並み、
琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。
宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、
中の財宝は全て米軍に略奪された。
戦後しばらくして一部が返還され、
また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。
また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、
沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている。

戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、
多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、
首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。
1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など
周辺の建築から再建が始まる。

1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、
城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。
1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると
1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、
本格的な復元がはじまった。
1989年(平成元年)に遺構の発掘調査や
昭和初期の正殿改修図面・写真資料、
古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・
建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。
1992年(平成4年)には正殿を中心とする建築物群、
そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。
現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・
公開がすすめられており、
正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。
2000年(平成12年)には「首里城跡」(しゅりじょうあと)として
他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の
名称で世界遺産に登録された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。
世界遺産とは
すぐれた普遍的価値を持つ、人類共通の財産です。
世界遺産は地形や生物、景観などの「自然遺産」、
建築物、遺跡などの「文化遺産」、
両方の要素をもつ「複合遺産」の3つに分類されます。
1972年、パリで開かれた第17回ユネスコ総会で
「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」が採択されました。
日本はこの条約を1992年に批准し、125番目の締結国となりました。
世界遺産条約の締約国は国内の登録候補地を世界遺産委員会へと推薦します。
候補地はユネスコの諮問委員会の調査を受け、
さらに委員会の設けた登録基準をクリアし、
世界遺産リストへと登録されます。
沖縄の「琉球王国のグスク及び関連遺産郡」は
2000年12月に文化遺産として世界遺産に登録されました。
「グスク」とは奄美大島諸島、沖縄諸島、
両先島諸島の比較的高所に現存する遺跡で、
一般に「グスク」=「城」と漢字が当てられ、
沖縄諸島、宮古・八重山諸島に
「グスク・スク」と呼ばれる遺跡は200から300近くあると推定されています。
「グスク」城・城壁のみを指す言葉ではなく、
御嶽(うたき)のような聖域を指すこともあります。
参考資料
フリー百科事典『ウィキぺディア』
ホームページ公開中
http://ameku148.com
【天久石材店】
【沖縄一の安さを目指す】
首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、
沖縄県那覇市首里にあり、
かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。
概要
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。
戦前は正殿などが国宝であったが、
1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、
わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。
1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、
本格的な復元は1980年代末から行われ、
1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。
1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。
1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。
その後2000年(平成12年)12月、
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、
登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、
復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、
園比屋武御嶽石門のほか、
第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、
国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、
弁財天堂(べざいてんどう)などの文化財がある。
歴史・沿革
首里城の創建年代は明らかではない。
近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、
三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。
おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に
他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、
首里城を王家の居城として用いるようになった。
同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。
史書で記録されている限りでも、
首里城は数度にわたり焼失しており、
そのたびに再建されてきた。
その度に木材の調達が問題となり、
薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、
将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。
一度目の焼失は1453年(享徳2年)に
第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した
王位争い(志魯・布里の乱)であり、
城内は完全に破壊された。
二度目の消失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。
しかし1709年(宝永6年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。
この時は財政が逼迫しており、
1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。
現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された
1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。
1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、
正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、
日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、
その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、
学校などとして利用された。
王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、
老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。
既に門のいくつかは取り壊されており、
正殿の取り壊しも検討された。
しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、
昭和初期(1928年(昭和3年) - 1933年(昭和8年))に
正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、
県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた
太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に
地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、
1945年5月25日から3日間に渡り
アメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、
27日に焼失したとされる。
(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる)
さらに日米両軍の激しい戦闘で、
首里城やその城下の町並み、
琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。
宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、
中の財宝は全て米軍に略奪された。
戦後しばらくして一部が返還され、
また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。
また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、
沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている。
戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、
多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、
首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。
1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など
周辺の建築から再建が始まる。
1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、
城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。
1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると
1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、
本格的な復元がはじまった。
1989年(平成元年)に遺構の発掘調査や
昭和初期の正殿改修図面・写真資料、
古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・
建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。
1992年(平成4年)には正殿を中心とする建築物群、
そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。
現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・
公開がすすめられており、
正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。
2000年(平成12年)には「首里城跡」(しゅりじょうあと)として
他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の
名称で世界遺産に登録された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。
世界遺産とは
すぐれた普遍的価値を持つ、人類共通の財産です。
世界遺産は地形や生物、景観などの「自然遺産」、
建築物、遺跡などの「文化遺産」、
両方の要素をもつ「複合遺産」の3つに分類されます。
1972年、パリで開かれた第17回ユネスコ総会で
「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」が採択されました。
日本はこの条約を1992年に批准し、125番目の締結国となりました。
世界遺産条約の締約国は国内の登録候補地を世界遺産委員会へと推薦します。
候補地はユネスコの諮問委員会の調査を受け、
さらに委員会の設けた登録基準をクリアし、
世界遺産リストへと登録されます。
沖縄の「琉球王国のグスク及び関連遺産郡」は
2000年12月に文化遺産として世界遺産に登録されました。
「グスク」とは奄美大島諸島、沖縄諸島、
両先島諸島の比較的高所に現存する遺跡で、
一般に「グスク」=「城」と漢字が当てられ、
沖縄諸島、宮古・八重山諸島に
「グスク・スク」と呼ばれる遺跡は200から300近くあると推定されています。
「グスク」城・城壁のみを指す言葉ではなく、
御嶽(うたき)のような聖域を指すこともあります。
参考資料
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ホームページ公開中
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Posted by 石屋の正 at 17:55│Comments(0)
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